日本刀から生まれた言葉

現代にも残っている言葉で、日本刀から生まれた言葉というものは意外と多いと言えるのではないでしょうか。例えば、目貫通り。「目貫」とは日本刀の柄にある部分を指しており、鮫皮と柄巻組の聞に巻き込まれている小さな金具の事をいうそうです。これは、刀の外装を整える役割の他に、柄を握った時、手に馴染むように調整するといったような重要な役割を担っている部分でもあるとされ、刀の中心線に正確に巻き込まれているものとされています。この中心線を、古くより「目貫通り」と呼んでいるとされ、このことから、町の中心を真っ直ぐに走る繁華街を「目貫通り」と呼ぶようになったと言われています。また「反りが合わない」という言葉もよく耳にするのではないでしょうか。これはもともと、刀身と、それを収める鞘とが合致しないことを表した言葉とされており、現代では主に、人間関係がうまくいかない状況を表す場合に使われているのではないでしょうか。しかし、まったく合わないというよりは、表面上うまくいっているように見えているが、実は違和感が否めないといった場合などの時に「反りが合わない」と言われることが多いのでっはないでしょうか。その他にも「鍔ぜり合い」という言葉も残っており、この本来の意味としては、「斬り合い」であるとされるが、これは、真剣同士での実戦の際、無我夢中で斬り合い、その結果、お互いの鍔と鍔がぶつかり合うくらいの接近戦になりやすいということから生まれた言葉であるようです。つまり、スポーツの試合などで、力が拮抗し、接戦になるといった様子を「鍔迫り合い」と表現するようになったのではないでしょうか。そのほかにも「切羽詰まる」「土壇場」「焼きを入れる」「折り紙付き」など、多くの由来の言葉が残っており、そういった意味を調べてみるのも面白いのではないでしょうか。

安宅切

初代福岡藩主である黒田長政の父・黒田官兵衛こと孝高は、智謀知略の軍師として知られています。
人的損失の大きな合戦を避ける傾向にあり、武士でありながら官兵衛がその生涯で殺めた人数は2人だけと言われています。
そのうちのひとりを斬ったのが、この安宅切です。

四国統ーに迫っていた長宗我部氏は、もともと織田信長と良好な関係を築いていましたが、長宗我部に圧迫されていた阿波の三好氏が信長に援軍を求め、長宗我部の勢力拡大に危機感を覚えた信長は、羽柴秀吉に三好救済を命じます。
そこで秀吉の名代として四国に赴いたのが、黒田官兵衛でした。

安宅切は、柄の縁に赤鋼、頭に金、鍔は 鉄、鞘には金、鎗に銀を使用しており、色彩は柄に朱、つまみ巻は茶、鞘は緑と 金色と非常に豪華絢爛で、文化財的な価値が高い刀です。

日本刀の定義と特徴

一口に「日本刀」と言っても、「何を?」、「どこまで?」を言うのでしょうか。
ここでは、「日本刀」と呼ばれる刀の定義を考えてみたいと思います。

正直言って、「定義」というものは色々あったり、ハッキリしなかったりします。
よく聞くのが、平安時代後期から発達した刀であることが言われています。
また、鎬造りであり、反りがある、片刃の刀とも言われています。
長い大刀のほか、脇差しや短刀などの短い刀も含まれます。
なお、文化庁における定義と言う物があるようで、「素材の一部に玉鋼を用い、折り返し鍛錬で鍛えられ、焼き入れされて作られた刀」を言うようです。
これは、第二次世界大戦後、日本刀を武器として没収や廃棄されるのを防ぐため、政府は美術品としての地位を作りました。
そのため、美術品としての容姿を持ち、日本古来の製法により作られた、伝統に基づく工芸品であると認定する必要がありました。

・特徴
特徴も色々あります。
素材から見ると、たたら製鉄で砂鉄から玉鋼を作り出しています。
そして、工程では玉鋼を折り返し鍛錬で鍛えています
構造は、柔らかい鉄と堅い鉄、粘り気のある鉄を組み合わせ、柔らかい鉄を芯として、固い鉄で包み込むようにして作られています。
・見た目で言うと、片刃の刀です。
・弧状の形をした反りがあり、鎬造りがあります。
・刃には刃文と呼ばれる波形の焼き入れによる模様があります。
・装丁は、刀身に柄があり、鐔が付いています。
・刀身は鞘に収まっています。
・大刀のほかにも脇差しや短刀、小太刀や腰刀、小刀など、用途似合わせた刀そろっています。

日本刀は機能性に優れている上、造形美に優れた美術品としての価値が高い刀だと言ってもよいのではないでしょうか。

日本刀の“産地”

「産地」と言うと、ちょっと変に思うかもしれませんが、日本刀が主に作られている地域を調べてみました。

古刀で見ると、作られていた平安時代の頃に有名な刀工がいた場所は、大和(奈良)、山城(京都)、備前(岡山)、相州(神奈川)、美濃(岐阜)の五カ所となります。

・大和(奈良)
大和は、日本刀の産地としては一番古いとされています。
それは、奈良には古くから都があったため、刀の需要が高く、刀工の発祥の地とも言われています。
主な刀工は、千手院派、当麻派、尻懸(しっかけ)派、保昌(ほうしょう)派、手掻(たがい)派など、大和五派と呼ばれる流派があり、そこから名刀が生み出されてきました。
大和物の造込みは鎬が高く、鎬幅が広いのが特徴です。
しかし、大和(奈良)は、あまり日本刀を作るのには向いていない土地でした。
日本刀を作るためには、大量の木炭と良質の砂鉄が必要ですが、大和では木炭はそれなりに手に入りますが、砂鉄は取れません。
それでも、日本刀作りが盛んになったのは、奈良に都があったからだと言われています。

・山城(京都)
山城では、平安中期から江戸初期まで盛んに作られ、著名な刀工は、粟田口(あわたぐち)、三条派、来(らい)派などが知られています。
山城の日本刀は、地金は板目流れごころがあり、刃文は直刃仕立ての優美なもの多いようです。
また、山城も大和と同様に、大量の木炭と良質の砂鉄の調達には不向きな土地にもかかわらず、日本刀が作られるようになったのは、京に都があったからでしょう。

・備前(岡山)
備前は吉野川下流を中心に栄え、長船派、一文字派、畠田派が知られています。
備前の特徴は、焼き入れの温度が低いことにより刀身が堅くならず、折れたりすることが少ないと言われています。
また、一文字派は丁子乱(ちょうじみだれ)の刃文が有名です。
備前は、平安時代から幕末にかけて、長い間作り続けている土地です。
それは、他の産地に比べ木炭や良質の砂鉄が取れ、刀作りに適した土地柄だったからです。

・相州(神奈川)
相州は、鎌倉時代の都であった神奈川県の鎌倉に、他の地から移り住んできた刀工によりできました。
著名なところでは、日本刀の代名詞となっている正宗(五郎入道正宗)が有名です。
相州の特徴は、巧みな卸し金の手法により高温で焼き入れを行い、地には地景が、刃中に金筋が見られます。
そして、大和とは反対に鎬が狭いのも特徴です。

・美濃(岐阜)
鎌倉後期頃に、大和などから移り住んできた刀工により作られ、志津三郎兼氏や関孫六兼元などが知られています。
そのため、美濃の刀には大和の流れを感じさせる反面、逆の面も見られます。
美濃の特徴は、板目が流れ、板目肌が肌立ち、白けています。
なお、造り込みはやや薄めのものが多く、先反りがあり、切れ味が良い、実用的な刀だと言われています。

このように日本刀の産地を見てみると、備前以外は材料の砂鉄と燃料の木炭の調達に不利な土地柄でありながら、日本刀の産地となりました。
やはり、日本刀の産地とは、都のあった土地と言うことになるのではないでしょうか。