日本刀と精神論

日本刀を、様々な精神論と結びつける考え方というのは、昔から、非常に多く見られており、有名な執筆も存在するなど、様々な解説が見られていることは、皆さんも、ご存知の通りであると思いますが、刀というものが、自分自身、つまり、武士社会にとっては、それぞれの人の、分身であるというふうに考えられていたため、その重要性は、非常に高かった、というふうに考えられるわけです。一人の人間が、刀を振って、鍛錬をするということは、自分自身を鍛えることにつながり、刀を磨くということは、自分自身を研磨するということにも、つながるという、相互の、関係にあったということは、まさに、武士道の精神を、ね強く表しているものだと考えられるでしょう。今や、日本刀を持つことは、非常に難しくなり、模造刀を用いた、レクリエーションや曲エクササイズが流行っている、現代においても、決して、この意味は変わってないというふうに考えられます。つまり、模造刀であっても、つるぎを人に向かって構えるということは、それだけで、緊張感を、持つ必要があるものであり、稽古が終わった後に、模造刀を磨いたりするということは、自分自身への、問いかけになるということを、よく、理解しておく必要がある、と言えるでしょう。このような、バックボーンを十分に知らないままに、日本刀や、模造刀を持ってしまうということは、歴史を全く知らないまま、過ごしているということにもなってしまいますし、武士道精神に、大きく反しているというふうに、考えられるでしょう。このような人が、日本刀や、模造刀を用いて、いくら鍛錬をした、という風にしても、精神的な成長は、決して望むことができない、という風にも、考えられなくもありません。

居合道の稽古について

型稽古は1人で行われることが多いです。その際に、自分の中に「仮想の敵」をイメージして稽古をします。型稽古では、この仮想の敵に対して、型の動きで立ち向かい、制していきます。型稽古の方法は流派などによって様々で、多少異なることもありあす。その中には仮想ではなく実際に相手をつけて複数の人数で稽古を行う場合もあります。基本的には居合道の稽古は1人で行うことを基本としているため、稽古したい際に稽古相手を探してその相手と予定を合わせたりして行う必要ないため自分の都合空いた時間に稽古をすることが可能です。この点は忙しい毎日を送っている現代人の生活にも都合がよく、稽古しやすいといえるでしょう。また、1人で稽古をするということは、自分の体力や技術に応じて無理のない運動ペースを自身で調節しながら稽古ができる点も利点といえるでしょう。これらから、居合道は、無理なく継続して稽古を続け、心身をしっかりと鍛錬していくができる武道といえます。そして、居合道では、多くの場合において竹刀や木工刀は使用せず、刀もしくは真剣、稽古用模擬刀を用いて稽古を行うという点が大きな特徴です。武士に憧れている人や、目指す人にとって道衣や袴を着用し、さらに、刀を腰に帯びた姿になれ、さらにその上で、腰の刀を鞘から抜き放ちつつ稽古をすることは、姿も武士に近くなれるので大きなロマンや武士の醍醐味を感じさせる魅力があるでしょう。このように、実際に刀と触れ合えることで、刀が持つ魅力について深く実感していくことができ、刀が持つ武器としての特性についても身近で学び、習熟していくことができます。居合う道は1人で始められるという点を含め、個人が尊重される世の中で、個性を消し、型に染まるとい現代では他に見ない方法であるため、現代人にとっては自分と向き合う新たな方法になるといえるでしょう。

居合道の起源

現代もサムライ文化を継承すべく居合道というものがあります。剣道や柔道同様に伝承されており、多くの人に学ばれている武道のひとつなのです。居合とは、戦国時代の武士が修業中に修得した技から始まっているとされています。その後の江戸時代では武士たちにとって居合は重要な武芸のひとつとして多くの人々によって修練されたといわれています。居合の特徴のひとつとして、まずは型により稽古を行う武道であることです。その型を反復して繰り返して稽古することにより、心身を鍛錬していくことが居合道の稽古の大きな特徴のひとつといえるでしょう。その型とは、こちらに敵意のある相手に対して、腰に帯びている刀を鞘から引き抜きつつ、その相手が仕掛けてくる攻撃を封じていき、相手を制し、勝負が決定した後において最後まで気を抜かず刀を鞘に納め、平素の状態に戻るところまでのことを言うことが多いです。ただ、本来はこちらが刀を抜かずとも、相手を制していくことこそが居合道の最も目指すところとされています。この居合道の型は、先述した通り武士の時代から伝えられたものも多く、武芸の達人あった武士たちが努力と工夫を凝らした末に生み出した動作であり、先人たちが残しくれた偉大な文化遺産であるといえます。そして今もこの文化は生命力を持ち続けています。現代において私たちが居合道を学ぼうとした際には、型の動きから逸脱することやそれぞれの個人の癖を出してしまうことないようにしていくことが大切なのです。型に自分を合わせるので、自分自身の持つ我を消し去るという表現が一番しっくりくるでしょう。そして、我を消し去るという行為が、普段抱えている悩みや不安、しがらみなど、さらに利害や欲望などからも解放されるという不思議な効果ももたらしてくれるそうです。このような心の浄化も型稽古の持つ素晴らしい魅力の一つであるといえるでしょう。

手掻初代包永

手掻初代包永(てがいしょだいかねなが)は鎌倉中期、大和の刀工集団手掻(転害、天蓋)派の始祖とされています。そして手掻派という流派の代表的な刀工となります。手掻初代包永は天蓋平三郎と称していたそうです。
著名作はいくつもあり、その中には国宝もあります。長さ73センチ、反り2.7センチ。1931年1224日に重要文化財に指定され、その後1952年11月22日に国宝指定された手掻包永太刀です。この太刀は現在静嘉堂文庫という専門図書館及び美術館に収蔵されています。静嘉堂文庫美術館として常設の美術館になっているので、この太刀を実際目にできるチャンスはあるのかもしれません。
「享保名物帳」という八代将軍徳川吉宗の命令で集められた、本阿弥家で鑑定した上押形をとっていた名物刀剣台帳のことをいいます。その享保名物帳の追記部分にあたる「昔之名剣御所之剣」に手掻包永の打った名物が追加されているそうです。昔之名剣御所之剣は初期の享保名物帳には記載されないそうです。詳細が判明しており、「謹案に此御剣現に御物なり。院御料御伝来とあり。長二尺二寸六分、金造雲毛彫の御立ち造」と書かれているそうです。
他にも名物が二振ありますが、児手柏という刀は焼身(やけみ、やきみ)になっています。焼身とは火事などで高熱で火入れが入ってしまった刀身のことを言います。火事などでなくなってしまった場合は焼失といいますので、児手柏は一応現存していることになります。現在は徳川ミュージアムが所蔵しています。
実際に目にかかることができるかはその時の運によりますが、焼身の刀身でも一見の価値があるのではないでしょうか。それが名刀工の仕事ではないかと考えます。

侍と日本刀

侍ということばは現代でも死語にはなっておらず、さまざまな文脈で用いられるのめにすることはありますが、実際のところ、「侍」という本質的なところから離れてしまっていることは致し方ないのですが、かつてあって今はなくなってしまった職業を褒め言葉の例えとして使うわけですから、現代の日本人にも、すくなからず侍のスピリッツが備わっているのではないかとは思わずにはいられません。日本語のなかで、昔の職業を誉め言葉のたとえにつかうのは、ぱっと思いつく限りだとサムライくらいしか浮かばないのではないでしょうか?実際、江戸時代あたりまで存在した「侍」というものに、自分自身を磨き、誠実に社会を渡り歩いたというイメージが強く残っているからこそ現代にも残っているのではないでしょうか?日本では遥か昔から、何事も心技体が揃っていなければ、特に国を動かすような大きな事を成すことはできないという考え方がありますし、全ての要素のうち、一つでも欠けてしまうと大成することはできないというふうにも言われてきました。これは武士にとっても同じで、心技体をしっかりと鍛えることが重要で、その時に、必ずと言っていいほど用いられたのが刀なのです。ここで用いられている刀、つまり「日本刀」とはまごうことなき真剣であり、迂闊に稽古を行ってしまえば、自分自身を傷つけてしまうこともあったと聞いたことがあります。十分な知識と鍛錬によってうみだされた技術、何よりも才能によって紡がれてきた歴史があるわけですね。そして、日々の鍛錬と稽古に対して、ひたむきかつ実直に向き合っていた武士は人々の尊敬を集め、また、現代においても、褒め言葉のたとえとして出てくるほど浸透していることは、日本人として、特に、誇りに思ってもいいのではないでしょうか。

 

日本刀とツルギ

日本刀と西洋の剣の違いについて、あなたはどれだけ挙げることができるでしょうか。同じ「武器」であり「切るもの」でありながら、その差は似て非なるものであるということを見て行きましょう。まず、日本刀は「切り裂く」ことを第一目的としているとされ、何と言っても切れ味重視であるとされており、使用方法としては、対象物に刃を当て、引き切るというスタイルであると言えるでしょう。また、鋭利であることが求められたこともあり、万身は薄く、片刃であることが特徴と言えるでしょう。対する西洋の剣は「叩き切る」ことと「突く」ことを目的としているとされ、斬撃力と貫通力といったものが重視されたとされており、使用方法は、対象物に対して振り下ろすか突き刺すかという力任せによるものが多いとされているようです。そのため、刀身は厚く重い上、多少の刃こぼれがある場合も武器として機能を維持できることが追求されているようです。このため、刀身の形状は両刃がポピュラーと言われています。

この2つは種類の豊富さといった点でも異なる部分が多く、日本刀は平安時代初期ごろから刀身に「反り」が入って以降、時代を通じてほぼ同じような形態であるものが多いとされるが、対する西洋の剣というものは多くのバリエーションへと派生していると言われている。中世では、騎士が使用したとされるロング・ソードや、刺突専門と言われるレイピア、片刃で湾刀という特徴的なサーベルと言うように、時代や地域によって様々なスタイルを確立し、進化していったとされています。もちろん日本刀も「古刀」「新刀」「新々刀」と言うように、微細な相違は見られるものの、西洋の剣のような大きな改変はされていないことがうかがえるのではないでしょうか。

日本刀から生まれた言葉

現代にも残っている言葉で、日本刀から生まれた言葉というものは意外と多いと言えるのではないでしょうか。例えば、目貫通り。「目貫」とは日本刀の柄にある部分を指しており、鮫皮と柄巻組の聞に巻き込まれている小さな金具の事をいうそうです。これは、刀の外装を整える役割の他に、柄を握った時、手に馴染むように調整するといったような重要な役割を担っている部分でもあるとされ、刀の中心線に正確に巻き込まれているものとされています。この中心線を、古くより「目貫通り」と呼んでいるとされ、このことから、町の中心を真っ直ぐに走る繁華街を「目貫通り」と呼ぶようになったと言われています。また「反りが合わない」という言葉もよく耳にするのではないでしょうか。これはもともと、刀身と、それを収める鞘とが合致しないことを表した言葉とされており、現代では主に、人間関係がうまくいかない状況を表す場合に使われているのではないでしょうか。しかし、まったく合わないというよりは、表面上うまくいっているように見えているが、実は違和感が否めないといった場合などの時に「反りが合わない」と言われることが多いのでっはないでしょうか。その他にも「鍔ぜり合い」という言葉も残っており、この本来の意味としては、「斬り合い」であるとされるが、これは、真剣同士での実戦の際、無我夢中で斬り合い、その結果、お互いの鍔と鍔がぶつかり合うくらいの接近戦になりやすいということから生まれた言葉であるようです。つまり、スポーツの試合などで、力が拮抗し、接戦になるといった様子を「鍔迫り合い」と表現するようになったのではないでしょうか。そのほかにも「切羽詰まる」「土壇場」「焼きを入れる」「折り紙付き」など、多くの由来の言葉が残っており、そういった意味を調べてみるのも面白いのではないでしょうか。

安宅切

初代福岡藩主である黒田長政の父・黒田官兵衛こと孝高は、智謀知略の軍師として知られています。
人的損失の大きな合戦を避ける傾向にあり、武士でありながら官兵衛がその生涯で殺めた人数は2人だけと言われています。
そのうちのひとりを斬ったのが、この安宅切です。

四国統ーに迫っていた長宗我部氏は、もともと織田信長と良好な関係を築いていましたが、長宗我部に圧迫されていた阿波の三好氏が信長に援軍を求め、長宗我部の勢力拡大に危機感を覚えた信長は、羽柴秀吉に三好救済を命じます。
そこで秀吉の名代として四国に赴いたのが、黒田官兵衛でした。

安宅切は、柄の縁に赤鋼、頭に金、鍔は 鉄、鞘には金、鎗に銀を使用しており、色彩は柄に朱、つまみ巻は茶、鞘は緑と 金色と非常に豪華絢爛で、文化財的な価値が高い刀です。

日本刀の定義と特徴

一口に「日本刀」と言っても、「何を?」、「どこまで?」を言うのでしょうか。
ここでは、「日本刀」と呼ばれる刀の定義を考えてみたいと思います。

正直言って、「定義」というものは色々あったり、ハッキリしなかったりします。
よく聞くのが、平安時代後期から発達した刀であることが言われています。
また、鎬造りであり、反りがある、片刃の刀とも言われています。
長い大刀のほか、脇差しや短刀などの短い刀も含まれます。
なお、文化庁における定義と言う物があるようで、「素材の一部に玉鋼を用い、折り返し鍛錬で鍛えられ、焼き入れされて作られた刀」を言うようです。
これは、第二次世界大戦後、日本刀を武器として没収や廃棄されるのを防ぐため、政府は美術品としての地位を作りました。
そのため、美術品としての容姿を持ち、日本古来の製法により作られた、伝統に基づく工芸品であると認定する必要がありました。

・特徴
特徴も色々あります。
素材から見ると、たたら製鉄で砂鉄から玉鋼を作り出しています。
そして、工程では玉鋼を折り返し鍛錬で鍛えています
構造は、柔らかい鉄と堅い鉄、粘り気のある鉄を組み合わせ、柔らかい鉄を芯として、固い鉄で包み込むようにして作られています。
・見た目で言うと、片刃の刀です。
・弧状の形をした反りがあり、鎬造りがあります。
・刃には刃文と呼ばれる波形の焼き入れによる模様があります。
・装丁は、刀身に柄があり、鐔が付いています。
・刀身は鞘に収まっています。
・大刀のほかにも脇差しや短刀、小太刀や腰刀、小刀など、用途似合わせた刀そろっています。

日本刀は機能性に優れている上、造形美に優れた美術品としての価値が高い刀だと言ってもよいのではないでしょうか。

日本刀の“産地”

「産地」と言うと、ちょっと変に思うかもしれませんが、日本刀が主に作られている地域を調べてみました。

古刀で見ると、作られていた平安時代の頃に有名な刀工がいた場所は、大和(奈良)、山城(京都)、備前(岡山)、相州(神奈川)、美濃(岐阜)の五カ所となります。

・大和(奈良)
大和は、日本刀の産地としては一番古いとされています。
それは、奈良には古くから都があったため、刀の需要が高く、刀工の発祥の地とも言われています。
主な刀工は、千手院派、当麻派、尻懸(しっかけ)派、保昌(ほうしょう)派、手掻(たがい)派など、大和五派と呼ばれる流派があり、そこから名刀が生み出されてきました。
大和物の造込みは鎬が高く、鎬幅が広いのが特徴です。
しかし、大和(奈良)は、あまり日本刀を作るのには向いていない土地でした。
日本刀を作るためには、大量の木炭と良質の砂鉄が必要ですが、大和では木炭はそれなりに手に入りますが、砂鉄は取れません。
それでも、日本刀作りが盛んになったのは、奈良に都があったからだと言われています。

・山城(京都)
山城では、平安中期から江戸初期まで盛んに作られ、著名な刀工は、粟田口(あわたぐち)、三条派、来(らい)派などが知られています。
山城の日本刀は、地金は板目流れごころがあり、刃文は直刃仕立ての優美なもの多いようです。
また、山城も大和と同様に、大量の木炭と良質の砂鉄の調達には不向きな土地にもかかわらず、日本刀が作られるようになったのは、京に都があったからでしょう。

・備前(岡山)
備前は吉野川下流を中心に栄え、長船派、一文字派、畠田派が知られています。
備前の特徴は、焼き入れの温度が低いことにより刀身が堅くならず、折れたりすることが少ないと言われています。
また、一文字派は丁子乱(ちょうじみだれ)の刃文が有名です。
備前は、平安時代から幕末にかけて、長い間作り続けている土地です。
それは、他の産地に比べ木炭や良質の砂鉄が取れ、刀作りに適した土地柄だったからです。

・相州(神奈川)
相州は、鎌倉時代の都であった神奈川県の鎌倉に、他の地から移り住んできた刀工によりできました。
著名なところでは、日本刀の代名詞となっている正宗(五郎入道正宗)が有名です。
相州の特徴は、巧みな卸し金の手法により高温で焼き入れを行い、地には地景が、刃中に金筋が見られます。
そして、大和とは反対に鎬が狭いのも特徴です。

・美濃(岐阜)
鎌倉後期頃に、大和などから移り住んできた刀工により作られ、志津三郎兼氏や関孫六兼元などが知られています。
そのため、美濃の刀には大和の流れを感じさせる反面、逆の面も見られます。
美濃の特徴は、板目が流れ、板目肌が肌立ち、白けています。
なお、造り込みはやや薄めのものが多く、先反りがあり、切れ味が良い、実用的な刀だと言われています。

このように日本刀の産地を見てみると、備前以外は材料の砂鉄と燃料の木炭の調達に不利な土地柄でありながら、日本刀の産地となりました。
やはり、日本刀の産地とは、都のあった土地と言うことになるのではないでしょうか。